岬ちゃんが来ない人のブログ

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私の中の差別意識と当事者意識、その複雑さ

前回の記事で「自分が知的障害と診断されたら嫌だ」という話をした。それが原因で病院受診ができないという話だ。

記事後半で、知的障害者本人あるいはご家族の方が見ていたら不快な思いをされるかもしれないと書いたが、それは私の発言が知的障害者に対する差別的感情を含んでいるからだ。

今回の記事では私の中にある差別意識を明らかにしつつ、何らかの障害を診断されたい人の当事者意識にも言及してみたい。

自分で言うのもなんだが、私はこれまでの人生、LGBTQのような性的少数者女性差別問題(フェミニズム問題)や宗教的マイノリティ(日本におけるイスラム教など)についてそれなりに意識を持ち、勉強してきたつもりだ。

平均的な日本人よりはこれらについて知識を持ち、偏見や差別なく接していると自負している。事実、知人から「理解のある人」のような扱いを受けたこともある。

しかし、最近の私が苦しんでいることのひとつは、まさに「私は差別主義者ではないのか?」ということだ。

厳密には差別主義者とはさすがに言い過ぎだと思うが、少なくとも私はあらゆる偏見や差別から自由な人間というわけではないということだ。

なぜか。

上述の通り、私は自分が知的障害と診断されるのが怖くて病院へ受診できない人間だ。

実際には境界域と診断される可能性の方が高いと思うが、それでも怖いと思ってしまう。自分の中の自尊心が傷つくのが怖い。

これは私が知的障害者に対して差別的感情を持っていることの現れではないだろうか。

もし知的障害に対して負の感情を一切持っていないのならば、このような不安を感じずにさっさと受診できるし、中学生当時もすんなりと受け入れられたはずなのだ。

それができないのは、やはり私の中の差別的感情がそうさせているのだろう。

そう考えたとき、私は自分がとんでもなく醜い人間のように思える。

これまでにも知的障害の人と接することはあった。それなりに親切に接してきたと思う。私は外面的には良い人だけど、そのように振る舞っているけれど、実際は彼らを差別していたとんでもない人間というわけだ。

どれだけLGBTQについて学び、理解のある素振りをしても、こういう肝心なところでまったく私の本質はダークなままなのかもしれないと思ってしまう。

しかし、一方で言い訳をさせてもらえば、誰だって自分が当事者になるのは嫌と思うのではないだろうか。

例えば心臓病の人が居たとする。その人の対して別に何か嫌がらせをしようと思う人はそんなに多くないだろう。ああ、心臓が弱いのね、と理解するだけだ。

では、自分が会社の健診で引っかかり、精密検査をしたところ心臓病であると分かったらどうだろうか。

ほとんどの人は「まさか自分が」「ありえない」「嫌だ」などと否定から入るはずだ。

今障害児を育てている立派な親御さんであっても、ご子息が障害を持っていると分かったときはやはり苦しんだのではないか。

それを見て、「あなたは差別主義者です」「障害者を差別しています」と指摘する人はあまりいないだろう。よほど性格の悪い人でもなければ。

それと同じで私が知的障害者と言われたくないのは、当事者意識としてはごく自然な感情なのだと思う。

 

ここ数年、自分は知的障害者を差別している酷い人間なんだと考えて落ち込むこともあった。しかしそれは実際にはごく当たり前の感情なのだと思う。

そう思うことで今は自分を慰めている。

この記事をご覧になった皆さんはどう思うだろうか?

私は差別的な人間ですか?