人は祈ることしかできない
「祈ることしかできない」という言葉に反感を覚えていたのはもう昔の話だ。
大学生くらいまでは「いやいや、できることあるだろ。行動しろよ」なんて思っていた。
もちろん自分に何もできなくて、祈ることくらいしかできないということも状況によってはあるだろう。
でも、そんな状態でも祈りなどという効果があるとは思えないような行為を行うのは愚の骨頂だと思っていた。
しかし今はそんな風には思えない。
人には祈ることしかできない。
カウンセリングというものがある。
クライエントの話す心理的な悩みや苦しみを傾聴することでその人が精神的に成長できるように促していくものだ。
カウンセラーというと、なんだかお悩み解決を一発でしてくれるようなイメージがあるが、そんなことはない。
心の問題を解決するのはクライエント自身、そのサポートをするのがカウンセラーだ。
難しいのはここだ。
クライエントの主体性が大事なのは分かっていても、クライエント自身に問題意識が無かったり、「先生の仰るとおりにします。全部決めてください」というような丸投げの依存スタイルだったりすることもある。
前者の場合、まずは人間関係の構築から初めて(これは誰でも同じだが)、信用してもらい、少しづつ本人が問題意識を持てるように行動変容を促していく。
後者の場合も、決してカウンセラーが主導権を握るようなことはせずに、あくまでのその人自身が自分の行動を決定できるように援助していく。
どちらのケースも本人が自分で自身の問題に気づいて自分で変えていく意識を持たなければ根本的な解決にはならない。
だからカウンセラーができることは、あくまで手助けとかきっかけ作り、一緒の方向を向いて見捨てずにサポートすることだけだ。
つまり、どうやっても本人が嫌だと言った場合にはどうにもできないのだ。
そこをうまーく誘導(という表現は正しくないだろうが)できるかがカウンセラーの腕の見せ所だろう。
それでもクライエントがダメだと言ったらダメなのだ。
カウンセラーにできるのは、「この人が変わってくれますように」と祈ることしかできない。
ここまで大げさなケースでなくてもいいだろう。
例えば友達が悪い連中とつるみ始めたとしよう。
貴方がそれに反対して、「お前のことを心配している。やめてくれ」と言った。
そのとき、やめるかやめないかは友達の意思で決まる。
貴方は祈ることしかできない。
店員が客におすすめの商品を説明するとき、そこにはその商品を買って欲しいという意図がある。これを持つのは店員の自由だ。
しかし客がこれに応える義務はない。買いたければ買えばいいし、買わなくたって店員は文句を言えない。
店員は祈ることしかできない。
世の中には強制的に相手の身体の自由を奪うことが認められることもある。
他者に危害を加えた人間は警察権力によって拘束されるし、医療でも他害・自傷行為の激しい患者は精神保健指定医によって身体拘束が認められる。薬物の投与によって身体の自由どころか、思考の自由を奪っているとすら言えるような状態にすることもできる。
しかしそれだって永遠とやるわけにはいかない。物理的にも、倫理的にも、だ。
だから最後には相手の意思で決まる。
哲学者イマヌエル・カントは「人格を目的として扱い、決してただ手段として用いることなかれ」と説いた。
他者の意思を真に尊重するなら、あるいは本当に他者を愛するなら、このことを忘れてはならない。
でも私は未熟者だからこれが辛いのだ。
友人が自殺しそうになっているとき、声をかけてあげることはできる。
一時的に無理矢理にでも行動を止めることもできる。
しかし彼が、彼女が、本当に死ぬのをやめたかどうかは分からない。
ふと目を離した隙に自殺を図るかもしれない。
辛い。
愛する人の前で跪く。
どうか死なないでくれ。生きてくれ。命を全うしてくれ。
神様、どうかこの人を助けてください。
この人を幸せにしてください。
私達は祈ることしかできない。