人生の不条理さとそれに抗うこと
人生は不条理だ。
それは多くの人が感じることだろう。思い通りに行くことの方が少ない。
例えば、自分はまったく悪くないのに上司に怒られた。これも不条理だし、病気や障害だってそうだ。
生まれた国や家で人生が決まってしまうこともまた不条理だ。
この不条理に対して、よく巷で聞く台詞がある。
「置かれた場所で咲きなさい」
「与えられたカードで勝負するしかない」
といった言葉だ。
この考えはもちろん正しい。人生は常に動いている。自分の状況を嘆いていても前には進めないので、実際にはこう考えて生きていくことになる。
ただ、この考えを習慣にしていると、つい大事なことを忘れそうになる気がしている。
不条理には抗ってもいいのだ。
不条理を受け入れることだけを考えてしまうと、自分の状況を変えようと努力することを放棄したり、酷い場合そうして足掻いている他人を見て嘲笑うようになりかねない。
実際上の台詞を人に対して使うとき、相手に対して若干説教のような上から目線のニュアンスを感じさせる人がいる。同情的に相手の心に寄り添った上で「でも変えられないものは仕方ないよね。前を向こう」という気持ちで言うのならいいのだが。
マルクスは人類の歴史は階級闘争の歴史と定義した。これは言い換えれば不条理に抵抗してきたということでもあるんじゃないか。
医学の発展だって、病やそれによる死という不条理に抗って成立した学問だ。
人類の歴史は不条理との闘争の歴史であり、人間とは不条理に抗う存在である。
古来から私達のご先祖様は闘ってきたのだ。そして今も私達は闘っている。
なにが言いたいかと言えば、つまり不条理へのレジスタンスを諦めてしまったらそれは人類の歴史の否定であり、人間存在の否定と言えるのではないかということだ。
人生は不条理に満ち満ちているが、その不条理さをほんの少しでも軽減して次世代が暮らしやすくなるように努力したのが私達人類のはずだ。
この世からすべての不条理が消失することはない。それは死後の楽しみにとっておこう(あるのか知らんが)。
でもこの世界は確実に良くなってきている。
ニーバーの祈りじゃないが、「変えられないものを受け入れ、変えるべきことを変える勇気」を私たちは、というか私は、持つべきなのかもしれない。
そして闘いが終わった暁にはみんなで祝福の宴を楽しむのだ。